イエスの死、ソクラテスの毒杯

 宗教は、宗教以前に戻るための必死のシステムであり、多くの人々が平和に共存するための知恵である。鍵はイエスの死、ソクラテスの毒杯にある。
 イエスの死をどう捉えるか、そして自らの死をいかなるものと、捉えるか。一言でいって、理不尽である。しかしその理不尽のなかに、紛れもない「理」が含まれている。イエスはその「理」をみて、イエスと肯いた。イエスと・・・
 この世も美しい精緻なるバランスで構成されてはいるが、時として多くの理不尽があふれている。しかし、あまりの予期せぬ理不尽に言葉と態度はひとつしかない。イエスジーザス。

 イエスジーザス。そんなことばを知らずとも、そんな心で生きる人がいる。彼、あるいは彼女の輝きは、なにものよりも美しく、何ものよりも謙虚である。道は無限のようにみえて、案外と少ないのかもしれない。生きることは、ジェットコースターのようにスリリングで、あっという間。退屈するには長すぎて、嘆くには短すぎる。実は、ちょうどよい。ちょうどよいはず。ちょうどであることを願う夜明け。

 そう、ねがいは「ちょうど」であること。