安楽死

 墓参りに行って来た。昨日。僕の親戚の中でかなりの思想家は二人いる。田中哲郎氏そして坂本一郎氏。坂本一郎氏は輪島は縄又町在住。みどりの会議から立候補し、輪島駅前で街宣していた僕に対し、「国政はわけに行かんぞ!」とエールを送ってくれた大正15年生まれ、寅年。
 一郎氏は今年の天候不順の中に、温暖化現象も来るところまで来た感があることを述べ、さらに、環境問題は日本国内にとどめることなく、中国を視野に入れていかなければ何の意味も持たぬとばっさり。そして、現状として一番問題になっている財政破綻については、医療費を削減するために、寝たきり老人をそのままにしておいてはいかぬと言う。78歳にして安楽死を認めて、残された(若い)人々の負担を軽くせねば日本に未来はないという。
 何のために生きるのか、がこれまで人生の大きなテーマだった僕に、何のために死んでいくのかという大きな問題提起をしてくれた。環境問題は、製品の製造から販売までのルートにのみ力を入れ、それらが廃棄されごみになっている現状(そしてその影響)を考慮しないところに原因があるとされたが、財政問題を同様に考えると、まるで人がモノのような扱いに感じてしまう。
 しかし、この安楽死についての考えは某メロメロポッチの最もインテリなお客様よりすでによく聞いており、ここでの本質的な問題はどのように生きることを生きるというのか、という点にある。生きるという意思、そして行動を伴わずして単に機械の力によってのみ心臓が動いている、そんな生き方をしたいと思うか否か、そしてそんな生き方は大きく税金に支えられる。
 大学時代お世話になった白井泰子先生は生命倫理についての研究に深く傾倒して行かれた。今やっとその問題に対するリアリティーが自分の中に生まれてきた。34歳の夏。