ひと( )、そら( )、とき( )

 人( )、空( )、時( )。

まるで、なぞなぞ的な書き出しだけれど、ずっとこのことを考えていた。あの世とこの世のなぞは、すでに解けた。この世は実はすべて、あの世によって埋め尽くされている。したがって、死んだらどこへ行くのか、という問いに対しては、死んでもどこにも行きはしない。死んでも、ここにいる。あるいは、そこここにいるというのが正しいのか、それともどこにもいないというべきなのか?
 逆に生きるということ。人間という言葉は、人というスペース、すなわち、人という宇宙をあらわし、人が生きるということは、このヒューマンスペースをまず持っているということ。
 そして、このヒューマンスペースは、必ず、ここに位置する。そう、空間。「空」なるスペース。宇宙。空なるがゆえにあらゆる宇宙を内包することができる。幾人のヒューマンスペースのみならず、あらゆる生命の宇宙をも共存させる神秘のスペース。空間。
 そして、目には見えねども、誰もがその流れに支配され、そこはかとなくその存在の前に言葉を失ってしまう「時」なるスペース。時間。

 すなわち、生きることはこの3つの「間」が、何の法則、あるいは奇跡、あるいは偶然、そして必然・・・とにかく重なり合っている。

「間」。なんだか、何もないことを意味しているこの一文字に、生きる妙が含まれているようで。興奮してしまう。逆に「あの世」はこれらのスペースがない世界。すなわち、スペースをとらないから、どこそこでもありうるとの見解。

魂の秘密も知らないくせに、思うが侭に書き綴り、漢字ってすごいなあと思う午後。

みぞれ交じりの空。