手を合わせることの意味

 僕が高校生のとき、某国語の先生は、死んでいる人を前に、心を動かされぬように手と手を合わせる・・・(動揺せぬように、あるいは、穢れた状態である「死」から自分の心を守るために)そのように教わった。
 なんとなく納得していたような気がしていたが、先日とあるお客様から、それは挨拶であり、会釈であると教わった。すなわち、合掌するということ、会釈するということは、無抵抗を表すと。両手を合わせれば、すなわちきわめて無防備である。深々と頭を下げる会釈も、これまた、無防備である。握手もまた、平和的な挨拶に見えるが、握手をしていないもう片方の手から、何かが飛び出すやも知れぬ・・という緊張感がそこには隠されていると。
 
 なるほど。手を合わせること、頭を下げること、無防備であること。この3点は、きわめて平和的な象徴なのかもしれない。しかし、僕は祖母に、よく「手を合わす心を持つことこそ最高の幸せ」あるいは、なにがなくとも「感謝の心」と口が酸っぱくなるほど言われ続けてきた。そして、ものを大切にしない今は、平和ボケの極み。果たしてよい時代なのか、悪い時代なのかと。
 
 平和な時代である。そして、十分に満たされているように思えても、何かに耐え切れず、みんな落ちていく。順番に。何も難しいことはなく、決して扉はふさがってはいないはずなのに。
 そろそろ真剣に手を合わせるときがきたのかもしれない。何もつかめず、何者に襲われてもやむなきポーズ「合掌」。けれど、そこにしか答えがないように思えるのは、僕の視野が狭すぎるせいか?
 こんな夜は、何人かの友人に葉書を書く。そして寝る。